14歳の人生の目的
なぜ生まれてきたのか なぜ生きるのか
14歳の人生の目的

14歳の人生の目的 ~第2章 自分は“だれ”だろう

2-1 神は存在するのか

ここまでの話は、

「人生に目的があると仮定するなら、生まれる前の世界や死んだ後の世界が存在し、そこには神、すなわち、人が人生の目的を達成できるように助ける力を持つお方が存在する」

というものです。

神は存在しないと考えておられる方も多くおられますので、少しこのことについて触れたいと思います。

神が存在しないと考える一番の理由は、やはり見たことがないというものではないでしょうか。他には、この世界には戦争や疫病、地震や水害、噴火などの災害、痛ましい犯罪など、悲しく悲惨なことが多すぎるというものです。もし神がおられるなら、このようなことをなぜ許容されているのかという疑問がわくことになります。さらに、宗教が絡んだ事件も多く、社会生活に悪影響を与えているというようなことも理由としてあげられるかもしれません。

このような疑問については別の機会にお話しできればと思いますが、まず神が存在すると考えられる理由について考えてみたいと思います。証人と証拠という二つの観点から考えてみます。

  • 証人:神にお会いした方がおられる
  • 証拠:万物が存在する

証人:神にお会いした人がいる

ほとんどの人は神に会ったことがありません。しかし、ある人々は神にあったと証言しています。そのような証言をしているのは、アダム、アブラハム、モーセ、イザヤといった旧約聖書に出てくる預言者たちです。彼らは皆、主なる神にお会いして言葉を交わしたことを証言しています。

また、ペテロ、パウロ、ヨハネなど、彼らは新約聖書の時代の十二使徒(イエス・キリストの特別な証人)ですが、彼らは、十字架にかけられ亡くなられた後に復活した、イエス・キリストに会ったと証言しています。彼らの多くは殉教、すなわちイエス・キリストが復活したという証言を変えなかったために殺されました。死の恐怖に直面しても証言を変えなかった彼らの証言は信用に値するのではないでしょうか。

証拠:万物が存在する

二つ目の証言者は、万物です。わたしたちの周りにあるものはみな、創造者(作った人)の存在を証明しています。

わたしは長い間、自動車用のエンジンの開発に携わってきました。そこでは、設計する人、製作する人、組み立てる人、テストする人など、様々な人が関わり、エンジンが出来上がっていきます。どの過程にも誰かが関わっています。すなわち、エンジンの存在は、それを作った人の存在を証明していることになります。

人生には目的があると仮定した段階で、地球や人が偶然に出来たという考えを否定しています。地球も、天体も、植物も動物も、そして人も、すべてのものがそれらを創造された方の存在を証明しています。

通常、裁判で事実を確定するには、証拠と証人の証言が必要です。神の存在については、万物の存在という証拠と、神にお会いしたと証言する証人がそろっています。それも複数の証人がそろっています。それでも皆さんは、自分の目の前に神が現れてほしいと思うかもしれません。しかし、もし、自分が神だという方が目の前に現れたとしても、その方が本当に神かはどうやってわかるのでしょうか。勝手に神を名乗っているのではないということをどうやって証明するのでしょうか。いずれにしても何らかの証明が必要になります。後程、自分自身ではっきりわかる方法についてお話しましょう。

2-2 神はどのようお方か

神が存在するとして、次の課題は、神がどのようなお方かということです。人の人生の目的を考えるにあたって、これはとても重要な質問です。神についてこれまでに分かっていることを整理すると、

「神は、人が人生の目的を達成できるように地球を創造し、環境、時代、人と人の関係性などすべてのものを整えた」

世界中には様々な宗教や神話があり、そこで様々な神が信じられています。膨大な数です。人生の目的について明らかにするために、これらのすべてについて調べ、検討し、判断を下すことは不可能です。14歳の皆さんが今それを始めたとしても、一生かかるかもしれません。いや、一生かけても難しいかもしれません。

そこでここではまず、一つの神について考えていきます。最終的に、それで充分であると感じていただけるように、その方法を提示し、話を進めたいと思います。

神について書かれているもので最も有名な書物は聖書です。そこでは、神が天地を創造したことについても、生まれる前の世界についても言及していますので、これまでの話の基本的な要素は満たしていると思われます。したがって、ここでは聖書に書かれている神について考えていきたいと思います。

聖書の中に描かれている神はどのような神でしょうか。神には様々な特質がありますが、人生の目的を考えるにあたって、重要な一つの特質について考えていきます。

それは、イエス・キリストが祈る方法について紹介している場面に現れています。そこにはこのような非常に興味深い言葉があります。それはこのような言葉です。

“天にいます我らの父よ”

(日本聖書協会『口語訳聖書』マタイによる福音書6章9節)

これは、祈りの時に人が神に呼び掛ける言葉ですが、ここでイエス・キリストは、 “父よ”と呼びかけています。クリスチャンは皆、この呼びかけから祈りを始めます。普通に使っていますが、この言葉からわかることはかなり衝撃的です。それは、

“神はわたしたちの父である”

ということです。それは同時に、

“わたしたちは神の子である”

ということも表しています。

神が父親で、自分が神の子?

皆さんが感じている気持ちは、次のような物語の出来事のようかもしれません。

『ある時、身寄りがなく孤児院に預けられている子供のところに、二人の身なりの良い紳士が訪れて、こう言います。「あなたは、今は身寄りがなくここに預けられていますが、あなたは孤児ではなく、この国の王の子供、すなわち王子です。今はつらい生活の中にありますが、あなたはやがてこの国を治める王になります。」』

これは架空の物語ですが、聖書が描く神と人の関係はこれに似ています。いやそれ以上です。それは、「神は人の父であり、人は神の子である」というものです。これを三つ目の仮定としたいと思います。

仮定3 『神は人の父であり、人は神の子である』

2-3 親の願い

神と人との関係を考えるにあたり、少し人間の親について考えてみましょう。

人間の親は赤ちゃんが生まれると、この子が幸福に育つように様々なことを行います。安心して生活できる場所を用意し、おいしくて栄養のある食物を与え、暖かい衣服を着せ、笑顔で話しかけ、泣いたらあやし、おしっこやうんちをしたらおむつを替えます。赤ちゃんが幸福でいると、両親も幸福です。たとえ、母親は極度の寝不足であっても、自分の身を削るようなことがあっても、自分のキャリアが犠牲になっても、赤ちゃんの幸福は自分の幸福です。

父親にとっても同様です。自分の稼いだお金をまったく自分のために使えなくても、趣味に時間やお金が使えなくても、出世競争から取り残されても、赤ちゃんの幸福が第1で、そしてそれは自分の幸福です。

これは子供が大きくなっても続きます。子供が反抗期になり“うざい”“くさい”と言われても、子供の幸福を願っています。その子供もやがて結婚して子供ができるようになり、父親母親となっていきます。そして、自分の親から愛されたのと同じように子供の幸福を願い、一生懸命子育てに取り組みます。

このことは、人の父である神も同様ではないでしょうか。人の両親が子供たちの幸福のために様々なもの、機会を用意し、教え、導くように、神も父として、子である人のために、様々なもの、機会を用意し、教え、導き、子供たちが成長して幸福を得られるようにしておられる、このように考えることは、自然なことではないでしょうか。

このことから分かることは、

「神が人の父であるなら、神の子である人の幸福を願っておられる」

2-3 人生の目的

そろそろ、人の人生の目的が見えてきたように思いますが、その前に少し、自然界、動物の世界に目を向けてみたいと思います。動物の世界では、生まれてきた赤ちゃんは成長し、やがて親のようになります。人間も同様です。人間は成長すると親のようになるのです。

現状の自分からは想像できないかもしれませんが、これを神と人の関係に当てはめて考えてみると、神が人の親であるなら、人は成長するとやがて神になると考えることができます。

子供が成長すると親のようになるように、人も成長し、やがて父である神のようになる」

ここに人生の目的があるように思います。神は親として子である人を愛しておられ、その幸福を願っておられます。そして、人が成長し自分のようになり幸福になるために、計画を作り、機会や場所、手段を用意されました。人の親が子供の幸福を願い、様々なことを計画し行うのと同じです。この計画は、人を幸福にするためのものであるため、幸福の計画、あるいは救いの計画と呼ぶことができます。

わたしたちがこの世に生まれてきたのは、この幸福の計画に従い、父である神のようになり、神が得ておられるのと同じ幸福を得るために、様々なことを学び、経験し、訓練されるためなのです。

これは、子供が学校に行くのと似ています。小さい時はいつも両親がそばにいましたが、やがて小学校に入ると、両親を離れて一人で学校に行きます。もちろん、先生や上級生が助けてくれます。学校で様々なことを学びます。友達もたくさんできます。楽しいこともたくさんありますが、中にはつらいことや悲しいこともあります。先生はいつも教え導いてくれます。やがて学年が上がり、下の学年の子が入ってきます。今度は、自分が彼らを助ける番になります。そして、必要な知識を身に着け、様々な経験し、身も心も成長し、卒業する資格を満たし、学校を後にすることになります。そうです。人生は神のようになり幸福になるための学校のようなものです。

もう一度言いますが、わたしたちがこの世に生まれてきたのは、父である神の幸福の計画に従い、父である神のように全知全能となり、神が得ておられると同じ幸福を得るために、この地上に生まれ、様々なことを学び、経験し、訓練されるためなのです。

これが人生の目的です。次からもう少し詳しく説明しましょう。

「人が今あるのは、父である神のようになり幸福を得るためである」